終わり良ければそれでいいのか?

 年末に怪我をしたら、病気に罹ったら、その一年は悪い一年だったということになるのでしょうか。そんなことはありません。大切なのは一年を通してどうであったか、ということです。年初に掲げた目標をどの程度達成することが出来たか、それを踏まえて来年はどのような目標を掲げるか。良かった、悪かったの二言論で考えてはいけません。

 しかし年末に少し良いことがあったのであれば、終わり良ければ、ということで終わりにするのもアリです。要は自分の都合の良いように解釈して、すっきりとした年末年始を迎えましょう、ということです。

 というわけで皆様、良いお年を。

クリスマスの存在意義

・夢
 誕生日と並ぶ一大記念日。小さい頃、多くの人が存在を疑わなかったサンタクロース。枕元の靴下。中々寝ない子供にひやひやする両親。純粋な心をいつまでも


・現実
 経済活動が活発になる原因。当日は飲食店や宿泊施設などサービス業が目立つが、クリスマス商戦というものがあるため製造業は始まる前が一番忙しい。不景気だ、不景気だ、と言われつつも何だかんだでお金を落とす人が多い。

理想ではなく妥協点を高く

 「理想を高く」というのは良く聞く言葉です。しかし理想は理想。達成できずにどこかで妥協することも多くあります。だからこそ必要なのが高い妥協点。妥協するのはあくまで最低限のこと。「これだけは妥協できない」という芯を持つこと。
 別に妥協することは悪いことではないと思います。叶えることが不可能に近い一つの理想を追い続けるという選択肢もありますが、あるところで妥協して新たな理想を追うという選択肢もあるのではないでしょうか。とは言え、妥協して次、妥協して次、では進歩がありません。そこで必要なのが高い妥協点なのです。
 常に妥協点を高く持つことで、前よりは今、今よりは次、と少しずつ妥協点を高めることで理想に限りなく近づくことも出来るのではないでしょうか。

それをアップして大丈夫?

とある かぞくが のこした blog
(無題ドキュメント)

 怖い。何が怖いってアップした当人に罪悪感がないことが怖い。そして本当にありえそうで怖い。
 ブログだとあまり見ませんが、Twitterとかだと自分の子供の写真を加工なしでそのままアップしている人が普通にいます。自分のfollowerさんにもいます。あと今はやっていませんがmixiなんかでも普通にいましたね。
 別に自分の写真をアップして自分に不都合が起こったのであれば自己責任ってことで終わりますし、全くの他人がアップしたのであれば法律に訴えることも出来ます。しかしアップしたのが身内となると簡単にはいきません。ましてやアップされた本人が養われているような状態であればなおさらです。

 ホームページ、ブログ、TwitterとWebに何かをアップすることに対するハードルが下がってきたこと。そしてハードルが下がったことによりWebに対する危機感が足りない人が増えてきていること。そのあたりが原因でしょうか。あと自分にも言えることなのですが、Twitterのように手軽に何でもアップ出来る環境と手軽にアップしている人達を見てると自分もつられそうになることがあります。
 何事もそうですがやらかしてからでは遅いです。ましてその災難が自分以外の誰かに降りかかるとなればなおさら。TwitterのPostが原因で空き巣に入られたとかいう話もあるみたいですし。

オタクというもの

 最近のオタク文化の広がり(?)によって、オタクでもない人間がオタクであることをネタもしくはステータスとして公言しているのを見たり、にわかオタクが増えて憤っている人がいるようですが、オタクというものはもっと周囲に無関心であるべきだと思います。
 これは別にコミュニケーションをないがしろにしろとか、一人でひきこもれとかいう話ではないです。同じものが好きな人同士で語り合ったりするのも、作品について議論をするのもありだと思います。しかし冒頭で書いたような違う文化圏に存在するような人に対してはもっと無関心でいいのではないでしょうか。元々オタク趣味というものは「理解はしなくていいから放っておいてくれ」というものだと思います。なので「そういう人もいるんだ」くらいの軽い気持ちでスルーしましょう。
 自分の領域を侵された、と考えて憤っている人もいるのかもしれませんが、憤る元気があったら自分の好きなことに対して労力を使った方が建設的ですよ。

偏食は飽きる

 食べ物の話ではなく、拾ってくる情報の話。
 基本的に雑食な人間。アニメ、マンガから政治、経済まで割りと幅広く色々な情報を見て回ることが多いです(芸能関係は除く)。例えばアニメのあるジャンルが面白くて一時的にその関係の情報量が増えることもありますが、一定量を越えると飽きて嫌いになってきます。そうなると自然とその情報から離れ、全く別の情報のところに流れます。
 こういうことを続けていると、自然と「浅く広く」な人間が出来上がるわけですが、長く色々な物事を楽しむには良いのかな、と思っています。そこにあるものを根こそぎ持っていくのではなく、興味が復活したときのために少しだけ残しておく、といった感じで。


 ふと思ったのは、何か一つの物事を極めようと思ったら、色々な物事にも手を出しつつも極めたいものを軸としてある程度以上は離れないことが必要なのかもしれません。極めたいものだけにしか手を出さなければ視野が狭くなりますし、自分のように軸を持たずに色々な物事に手を出しすぎれば質は上がりませんから。このあたりが極められる人とそうでない人の違いなんでしょうかね。

喪失

失われるのは一瞬であり、失うに至る原因はほんの些細なこと。
喪失感の大きさにそれが必要であったかは関係なく、ただただ悲しむのみ。
だからこそ失ったことを認められずに必死に救い上げようとする。
わずかに残ったものだけでも救うことを出来ると信じて。





意訳。

 冷蔵庫の中に入れておいた卵の置場が悪かったようで、扉を開けた瞬間に落下。当然受け取る余裕などなく無残にも床に激突。かろうじて中身を飛び散らせなかった卵もありましたが、殻にヒビが入り、そのまま保存出来る状態ではありませんでした。仕方ないので夕食に卵焼きが追加されました。以上。